1913(大正 2)年 |
3月27日、鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)で履物製造小売業を営む父・常寿郎、母・ミヤの二男二女の次男として生まれる。その後、兄、妹が夭折し、一人息子となる。 |
1919(大正 8)年 |
境町尋常高等小学校入学。 |
1922(大正11)年 |
算数は苦手だったが国語は得意で、よく朗読をさせられる。クレヨンが出現して、図画の時間が楽しかった。 |
1923(大正12)年 |
この頃、斜め向かいに住む青年のお座敷暗室で、電球を赤い布で包んで写真の焼付けをしているのを見て、画像が浮かび上がってくる写真のおもしろさに惹かれる。 |
1924(大正13)年 |
「少年倶楽部」や「少年世界」「日本少年」などの常連の挿絵画家、高畠華宵・山口将吉郎・伊藤彦造などに魅力をおぼえ、とくに華宵にあこがれる。 |
1925(大正14)年 |
鳥取県立米子中学校入学。 |
1928(昭和 3)年 |
この頃から写真熱も燃えさかり、授業中机の下にカメラ雑誌をひろげているところを教師に見つかって怒られる。また、手札判の陶製バットを現像・定着用に購入し、自宅の台所の押入れに潜り込んでベスト判の密着焼きに夢中になっていたところを父に見つかり、写真道楽をするのか、とすごい剣幕で叱られる。 |
1929(昭和 4)年 |
まもなく軟化した父から、はじめてのカメラ(国産ベスト判)を買ってもらい、感激する。 |
1930(昭和 5)年 |
洋画家を志して美術学校の願書を取り寄せ、上京を希望するが、跡継ぎだったため、両親は強く反対。そのかわりに、高級カメラのドイツ製テッサーF4.5付きピコレット(ベスト判)を買ってもらう。 |
1931(昭和 6)年 |
鳥取県立米子中学校卒業後、本格的に写真に取り組む。米子写友会入会。この頃、ヨーロッパの前衛写真が満載された『MODERN PHOTOGRAPHY』(『THE STUDIO』誌1931年秋の特別号)を手にし、強い刺激を受ける。《浜の少年》で、『カメラ』(12月号)の月例懸賞に初めて入選。 |
1932(昭和 7)年 |
東京日比谷の美松百貨店写真室での修業の後、オリエンタル写真学校に3ヶ月間通う(第8期生)。帰郷し、自宅で営業写真館を開業する。東京で撮影した《水道橋風景》が「日本光画協会展」(京都烏丸商工会議所、8月)に特選入選し、その後日本光画協会に入会。 |
1933(昭和 8)年 |
植田が中心となり日本海倶楽部を結成する。この頃より、『アサヒカメラ』『写真サロン』等の写真雑誌の月例コンテストに精力的に応募する。 |
1935(昭和10)年 |
白石紀江と結婚。妻の協力もあり、創作活動に熱心に取り組むこととなる。 |
1936(昭和11)年 |
《シルウエット》(『写真サロン』6月特別増大号・創刊記念特別大懸賞1等3席)をはじめ逆光の効果を用いた作品に取り組む。 |
1937(昭和12)年 |
石津良介の呼びかけで中国写真家集団が結成(2月)され、創立同人となる。以後、1940年まで4年にわたり、東京の小西六ホールで毎年展覧会を行う。長男、汎誕生。 |
1938(昭和13)年 |
長女、和子誕生。 |
1939(昭和14)年 |
「第3回中国写真家集団展」(9月)に発表した最初の演出写真、《少女四態》が「第13回日本写真美術展」(銀座三越、東京、12月、毎日新聞社主催)で特選を受賞。 |
1940(昭和15)年 |
次男、充誕生。 |
1943(昭和18)年 |
山口県の光海軍工廠に徴用されるが栄養失調気味で帰郷。その後、1938年に続き2度目の応召も即日帰郷となる。 |
1944(昭和19)年 |
三男、亨誕生。 |
1945(昭和20)年 |
12月、大阪朝日新聞紙上の「朝日写真展覧会」公募の社告を目にし、再び写真家として活動できることを実感する。 |
1947(昭和22)年 |
写真家集団「銀龍社」に緑川洋一とともに参加。 |
1949(昭和24)年 |
『カメラ』の桑原甲子雄編集長の企画で、土門拳、緑川洋一との“競写”が鳥取砂丘で行われ、その模様が同誌9月号に掲載される。10月号には「綴方・私の家族」として数点の家族写真が掲載される。 |
1950(昭和25)年 |
この頃、植田の自宅に集まる山陰地方の若い写真家と写真家集団「エタン派」結成。 |
1951(昭和26)年 |
この年の秋、鳥取砂丘で初めてのヌード撮影を行う。 |
1952(昭和27)年 |
この頃、民具等を被写体とした作品(シリーズ〈かたち〉)に取り組む。 |
1955(昭和30)年 |
二科会写真部会員となる。この頃より、山陰の風土の中で素朴な表情をみせる子供たちを被写体とした作品(シリーズ〈童暦〉)を撮り始める。 |
1971(昭和46)年 |
「童暦」(「映像の現代」第3巻、中央公論社)の刊行をきっかけに、写真界における植田正治の存在が再確認される。 |
1972(昭和47)年 |
米子市東倉吉町に三階建のビルを設け、1階に「植田カメラ」、2階には喫茶店「茶蘭花」、3階には「ギャラリーU」を開業する。この喫茶店やギャラリーには、植田を慕うアマチュアの写真家が集まり、「サークルU」を結成。初めての海外、ヨーロッパを旅行する。 |
1975(昭和50)年 |
九州産業大学芸術学部写真学科教授(待遇)に就任(〜1994年)。 |
1978(昭和53)年 |
第9回アルル国際写真フェスティバル(フランス、7月)に招かれ、ワークショップを担当。作品数点がフランス国立図書館のコレクションとなる。 |
1979(昭和54)年 |
ボローニャ近代美術館を含む海外各地の展覧会に出品。島根大学教育学部非常勤講師就任。(〜1983年)。 |
1982(昭和57)年 |
この頃より、ヨーロッパ各地の画廊で個展が開催されるようになる。 |
1983(昭和58)年 |
植田の創作活動を支え続けた妻・紀江死去。この年より、次男・充とともにファッション写真(シリーズ〈砂丘モード〉)に取り組む。 |
1984(昭和59)年 |
川崎市民ミュージアムに作品が収蔵される。以降現在まで、横浜美術館、東京都写真美術館、米子市美術館、山口県立美術館、東京国立近代美術館、ポンピドゥー・センター、ヒューストン美術館等に作品が収蔵される。 |
1987(昭和62)年 |
第18回アルル国際写真フェスティバル(7月)に招待され、砂丘を舞台とした1950年前後の作品と近作のファッション写真をフィルムで上映し、喝采をあびる。この頃より、多重露光を用いた静物のカラー作品に取り組む。 |
1992(平成 4)年 |
この頃、ダイトランスファーによる作品制作。 |
1994(平成 6)年 |
フランス文化庁が20作品を購入。 |
1995(平成 7)年 |
鳥取県西伯郡岸本町(現:伯耆町)に植田正治写真美術館開館(9月)。 |
2000(平成12)年 |
7月 4日、急性心筋梗塞のため死去。 |